ACANEXの日記

とあるWEBデザイナーの何の変哲もない日記。

漫画:引きこもりお兄ちゃん(全9P)

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7年前に描いてたものの発掘。

夜中に「ワアアアーーーッ!」って、無性にマクドナルドとかコンビニおにぎりを食べたくなるテンションと同じで、すごく描きたくなって、でもペンタブとかなくて、実家にあったサインペンを使って「ワアアアーーーッ!」って一晩で描いた。翌日にPCで色足し。7年経った今でも、趣味の作品は全部製作2日。7年経っても集中力の限界時間が変わらないらしい。

絵の酷さはさておき、動物セラピーについて書いてみる。

動物セラピーとは、医療において治療の補助として行われる療法の一つである。聞いた事あるかもしれないし、自分自身実感して知っている人もいるかもしれない。それは生理的利点、心理的利点、社会的利点をもたらす。

生理的利点とは→食う・寝るといった生理的活動が「動物の面倒をみなきゃ」という責任感と目標が生まれるために健康的なサイクルになるという利点

心理的利点とは→遊ぶ、笑う、話しかけるなどといった自己表現を、動物との対話を通じて行えるようになっていくという利点

社会的利点とは→例えば餌を買いにペットショップを出入りするとか、同じ種類の飼い主との交流を持つとか、欲しいものが出来て働くようになるとか、社会参加に繋がるような利点

の3つである。

幼い子供が金魚や小動物の面倒係から責任感が育まれたり、思春期になりアルバイトやサークル活動から徐々に社会的グループへの参加に慣れていくのと同じ仕組み。それを動物を介在して目指すというもの。思えば自分の幼い頃も屋台で取った金魚の為に「朝餌やらなきゃ」とか「帰ってきたら餌やらなきゃ」とかいったリズムが生まれてた。それが引きこもりにも丁度いい責任サイズだということ。例えばこれが「親の介護」だったりすると、療法とは呼べない。

自分の周りには引きこもりや元引きこもりが何人かいるんだけど、一概に何が良いとか言えないし、どうした方がいいというのもないし、出来れば苦しまないで欲しいと願う位しか言葉にすることはできない。もし逸脱したいと方法を模索している人がいたら、動物を飼うのも一つの方法かもしれませんと提案してみます。

DR-Z50

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たぶん小1か小2くらいの女の子。実際、ヘルメットもグローブも付けずにピースできる余裕ありながら飛べる子って、いるのかな。

悩みなんだけど、ペンタブで字が上手く書けない。よくデジタル絵でも字の上手い人いるけど、どうやって書いてるんだろう。画面見ながら手元動かすと酷くヨレる。あと古いペンタブのせいか書いてから線が表示されるまでやや時差がある。絵はアナログの方が描きやすいけど、やっぱレイヤーとCtr+Zの存在は欠かせない。人類の叡智素晴らしい。

バイクの話。

私はバイクに乗る。正確に言うと現在休止中なのだけど、バイクが好きだ。
しかし、ごく親しい人が重大なバイク事故にあった。
その後も私は暫くバイクに乗っていたが、どうしても無茶な運転を辞める事が出来なかった。それは、快楽を求めてなのか、死を期待してのもなのかは分からない。一度転倒をし、以来周りの人間に強く「そういう乗り方はしないで欲しい」と言われたのをきっかけに、バイクを休止している。再開するのは、安全にバイクに乗れる状態になれた時である。バイクというものは、壊す時も死ぬ時も一瞬である。「大丈夫だろう」という傲慢さが事故に繋がる。そうやって自分自身小さな転倒をして来たし、友人達の大きな事故を見て来た。そして身近な人間との仲を失った。
それでも毎日「バイクに乗りたい」と思う。禁煙をしている時と似た様な状態かもしれない。毎日のように乗っていたから。習慣的な中毒。
しかし、乗れない(乗らないと決めている)のに乗りたいなどと口にしても何も生まれないため、何も言わないようにしている。私の親しくない知人では「バイクがそれ程好きでなく降りた人間」と思っている人もいるかもしれないほど、バイクの話を避けている。飲めない酒の話をしても辛くなるからしない、といった状態だ。
そういえば、3年程前に知人から聞いた話がある。その人はサーキットやスポーツ走行が好きで、高速道路でもスーパースポーツバイクを飛ばす人だったと言う。ある公道の区間でタイムを計り、熱心にその記録をブログに投稿するのが習慣だったとか。そしてある日右直事故で大きな怪我をした。後遺症に残るような怪我ではなかったが、バイクに乗れるようになるまで数ヶ月を要した。その間、その人のブログはタイム記録から、哲学ブログへと変容していった。少しずつ、「バイクとは」という哲学的な内容に変わって行き、そして少しずつ、内容が暗くなっていったという。それで周囲の友人達は「これはマズイ」とドライブに誘ったり飲みに誘ったりするようになったとか。
今こうしてこの文章を書いている自分も、その人と同じ類かもしれない。毎日乗っていた頃はバイクについて語るのが苦手で、走る以上に雄弁なことはないだろうと思っていた。今こうしてここにつらつらと書いている文章は、乗れないおじさんの独り言の類いと殆ど変わらないだろう。焦ってはいけないが、こんな日もあったなワハハと笑える日が来るようになりたいと思っている。

また、暑い日にバイクを車に積み込んで早朝に出かけたり、山にソフトクリームを食べに行ったり、写真を撮りに行ったりしたいものである。

ベルセルクの思い出。

中学時代から見ている、思い出の作品です。

音楽を聴けば、布団に隠れて観たブラウン管の中学時代に逆戻り。

思い出のフラッシュバックはあらゆる引き金で起こる。映像、におい、音。アニメのオープニングテーマ曲が頭の中で鳴り響けば、いつでも、あのころ布団に隠れて観ていた中学時代に戻ってしまう。暗闇に、ブラウン管の灯りだけが浮かぶ。廊下に親の歩く音がきしめば、すぐTVを消す。古いTVで、リモコンがなかったため、直接電源ボタンを押さねばならなかった。電源ボタンは出っ張っていて、強く力を入れなければ消えなかった。二段ベッドから身を乗り出して、秒で消す。結構つらいけど、慣れていたといえば慣れていた。親にバレないようアニメを見るのも一苦労だった。

ベッドの下に隠した好きなキャラの模写。

二段ベッドの布団の下にファイルを隠していた。模写したキャラクターの絵を隠していたのだった。好きだった。恋に近い。いや、恋だったのだろう。(漫画のキャラクターにだ!)いつも眺めていた。模写のいいところは、ほんの少しだけキャラを自分好みに描きかえられること。(好きだったキャラの名はジュドーといいます)

この作品は、初めて見た人はたいてい衝撃を受けるんじゃないだろうか?

この漫画を初めて見たのは中学1年生だった。やはり、初めて見た時の衝撃は大きい。特に多感な中学時代といえばその衝撃もひとしお。作品を見た人なら、子供が見るには刺激が強いということを分かってくれると思う。

序盤でいきなり首が飛び、拷問され、ヒロインの血が流れる。容赦無くキャラが死ぬ。主要であれなあるほどに死ぬ。可愛いキャラであればすぐに死ぬ。死ななかった場合、強姦に遭う。

ページの印象はパッと見「色、濃っ」である。描き込みやベタ塗りの多さ。とにかくページが開く度に黒い。ついでに言うと、漫画のイメージ的な印象も黒い。常にドブか、闇か、排水溝、化け物、血が描かれる。どす黒いものばかり登場するため、唯一の女性キャラや妖精キャラが異様に美しく見える。女性キャラや妖精キャラが出るとページの印象がやや白くなる。癒しだ。休息だ。でもすぐに死ぬ。大体死ぬ。絶望に陥る。いい目に遭う者は一人も居ない。

おっさんおばさんと化したのに夢のかがり火をたよってしまう。

主人公ガッツの青春時代はあまりに謳歌されていた。その青春時代は、家族のいなかったガッツの心のよりどころとなる。家族のような温かみを覚えた記憶が、彼の心の支えとなるのだ。我々読者も、ガッツと同じである。ガッツのように、我々読者も、あの青春時代が忘れられない。「あの日々が一番よかった」と感じてしまう。だから読むのを辞められない。このあと、もしかしたらまた輝かしい日々が来るのかもしれないと思ってしまう。もう25年も連載されているのに。どんなに若かった読者も大概が30を超えておっさんおばさんと化しているのに。まだ、期待してしまう。彼らの友情や、愛情は、もう一度どうにかなるんじゃないか?期待してしまう。

新刊出るの遅過ぎ問題。

描き込みがすさまじく、連載ペースは早くない。数年置きに1〜2巻しか出ない。しかも、中々ストーリーが進まない。生きている間に最終話を読めるのだろうか?いや我々が生きているあいだではなく、作者は生きているあいだに描き終わることができるのか?(これも多くの読者が思っていることだろう)

 

隠れオタクの同胞たち。

それなりに有名な作品ではあるけれど、周りにこの作品を知っている者はいない。だからこうしてブログで独り言を書く。インターネットというのは素晴らしい。現実の周りには居なくても、回線を通すと実生活の知り合い以上の数の人間と、同じ趣味の話が出来たりする。

ダイヤルアップで少しずつ画像を読み込んだハローワールドから、私たちの生活は希望に満ちている。隠れオタクやファンと繋がって、暗闇に照らされた顔をニヤけさせる。今日もそうだ仲間が居る。隠れオタクの同胞である。

 

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