ACANEXの日記

とあるWEBデザイナーの何の変哲もない日記。

ドラマ:深夜食堂より「自分が本気で惚れた女、安く見るもんじゃないよ」

ドラマ深夜食堂、パート1。第7話。「タマゴサンドイッチ」の回から

 

「自分が本気で惚れた女、安く見るもんじゃないよ」

 

つい我々は振られた相手を悪く言う。

きっと、自分を守るために「相手は悪いヤツだったのさ!」ということにしてみた人は少なくないだろう。

相手を「悪い」って結論付けることで、自分を慰める。「別れて良かった相手だったのだ!」と。それは事実か?”あんなに好きだったくせに?”

別れた原因がどちらかにあったにしても、やはりこの言葉の通り、相手と自分に誇りを持っていいのだろう。良い/悪いという価値観は人によって違うが、すくなくとも、相手を悪く言うより、互いを誇りに思ったほうが、精神衛生上健康的だ。

相手を悪く言うことは、自分も卑下することになる。そんな人を愛したわけだから。「あのひとを愛した自分と、あのひとを誇りに思おう」という考えを諭すのが、この言葉なんだと思う。(たぶん)

ドラマを見ていて、そう自分に言い聞かせても悪くないと思えた。どうーーーーー180度見方を変えても極悪人だったとしても、「自分が好きになるくらい魅力的だった」。そう思い込んでみるのも悪くないと思えた。

世界中の人間が彼を非難しても、私は彼のことが好きだった。 

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(ドラマを観て作りたくなったサンドイッチ)

方丈記 鴨長明「かてともしければおろそかなれども、なほ味をあまくす。」

ありがたいことにこの人生において食うに窮する機会がさほどなかった。さほどということはいくどか、そういった状況もあったということなんだけど、生命の危機をありありと感じるほどはなかったんじゃないかとおもう。

おもえば、記憶を遡ること小学校二年生のとき。友人5人ほどだったか、噴水があって、鳩の多い世田谷公園に来ていた。子供たちだけで公園にくるのは中々ない機会なので、ずいぶんと高揚していたようにおもう。売店でおのおの好きなお菓子を買い、噴水に降りるための階段に向かっていた。噴水の周りはぐるりと遠くに見える森に囲われていた。空は晴れ。あたたかなコンクリートのにおいを感じながら急ぎ足で、数メートルしかないゆるやかな階段を渡ろうとしていた。そのとき、わたしは持っていたコアラのマーチを一つぶ落とした。ああしまったと拾おうとした瞬間、友人がそれを踏んだ。潰す目的だったと感じる強さで。親愛を含んだ笑みをこちらに向けた。わたしは驚いた。なんのことはない、彼は落ちたゴミを気持ちよく潰し、「ニカッ」と笑ったのだ。そのときわたしは、人間が食べ物を拒絶する行為を初めて見た気がする。

物心がついたころから、家庭では父親を「残飯処理班」と笑って呼んでいた。父は食卓に残った食材を必ず食べる。最初に手を出すのは昨夜の残り物。「なぜ食べるの?」と聞くと「悪くなるから」と言っていた。「お腹いっぱいにならないの?」と聞くと「なる」と言い、それなのに食べるの変なのとおもった。母親は「そういう人なのよ」と言い、わたしはそういう人なのか、とおもった

気が付くとわたしも同じようなことをするようになっていた。家庭では、お腹がいっぱいでも、皿に物が残っていると食べなくてはとおもい食べた。たんなる欲張りだったかもしれない。兄弟がいて、奪い合いだったせいもあるかもしれない。食べ物は特別で神聖な存在だった。だってご飯は美味しいし、納豆や海苔は美味い

高校に入ってからのとき、少しやんちゃな同級生が、ファストフード店で買った商品を「まずい」と道に捨てたことがあった。またわたしは驚いた。そのような行為がこの世の中において許されるのか。買ったものが思ったより口に合わないことはある。しかしそれを捨てる?母親の授乳を拒絶する赤ん坊と言うか、空につばを吐く鳥と言うか、自然の摂理だとおもっていた流れに反するなにかを見て、おどろく以外のなすすべを見失った。だってご飯だよ?我々は食べなければ死ぬ。働いた金で食べ物を買う。食物と作ってくれた人に感謝していただく。これが飽食の時代なのか。

18歳の頃には、あまり食事を取らなくなったことがあった。忙しさと疲れで食欲と時間がなかったのだ。断片的に思い出すのは、生きるために仕方なく炊飯器から米を手ですくって食べたり、人に出されたカレーライスやマグロ丼を申し訳なく嫌々飲み込んだこと。生に希望が持てないのに生きるための薬を喉につめこむ行為は苦痛だった。

それからその時期もだいぶ過ぎ去ったあと、金銭的余裕から食事を楽しむようになった。
近所の飲食店を巡り、評判の良いお店に出向き、思い出とゆかりのあるお店を訪ねた。また、それを一通りし終えると、料理を楽しんだ。好きな食材を購入し、好きなメニューを好みの味付けで作る。ひとりで食べたり、写真におさめたり、親しい人と食事を共にしたり。心地よさを感じるほど、心地よくないときとの落差をはげしく感じるようになっていった。

味気のない食事をとる位なら食べない方がよく、人と会うとき以外に食事をほとんど取らなくなっていた。人といただく食事は美味しいけど、一人で食べる食事はおいしくない。そうなると、毎日人と会っているわけではないので、食べない日もでてくる。それは1日の時もあれば数日続くときもある。これでは健康によくない。ある日「これはよくない」とおもって出前を頼んだ時、ショックを受ける出来事があった。味を感じなかったのだ。味を感じないことに疑問を持ちながら食べ進めたが、あまりの味の感じなさに堪らなくなり、ついに箸をとめた。そして気持ち悪くなり、食べるのをやめてしまった。今まで、目の前の食事を残したことはなかったが、熱心な信者が神に背いてしまったような絶望感と背徳感を覚えたことを覚えている。

今日まで、できるかぎり健康のために食の取り方というものを意識してきていたつもりだった。食事回数や、栄養バランス、咀嚼回数。一旦習慣化するとそれはもはや意味の重要性を失った通例儀式のようで、食べたくなくても朝ごはんを食べた。乳製品は一日一度は摂取し、咀嚼回数は最低20回を守った。炭水化物、ビタミン、タンパク質のバランスは一日のトータルでバランスを補う。しかしどんどんと食べることが苦痛になってきている今、そのバランスは崩壊しつつあり、さらに無理に食べようとすればするほど食事が辛くなっていた。しまいにはこうして味すら感じなくなってしまった。これではまずい。ではいっそ、今までの通例儀式に逆らい、健康など意に介さず、「ソフトクリームが食べたいわ」「今日は食べる気分じゃないの」と気分に合わせて食事をしたらどうなるか?
そうすると基本がカロリーメイトなどの栄養補助食品になったが、それも次第に取らなくなっていった。人と会うときだけ火と人の手の通った食事をいただいた。はっきり言って非常にお腹が空く。お腹が空くと、久々に食べる料理はほんとうにおいしく、貴重なものになった。味を感じなかった絶望的なかなしみを思い出し、それと対比すると、味を感じることはおおきなよろこびになった。うまい。できればもう、味を感じないなどはごめんだ。

体が理性を失い、食物を渇望するのを待つために、家に食物を置かないようにした。欲しい時にはかならず、わざわざ足を運んで時間をとる。そして、今日口にするものへ思いを巡らせる時間を大事にし、貧乏を好んだ。物に満たされると飽和される。感覚という感覚が鈍する。選択して貧乏を選ぶとはなんと贅沢だろう。危機感に欠ける悠長なわたしの思惑とは裏腹に、わたしの経済状況は現実味を帯びて生存危機に面していった。

それから友人の施しを受け、一時的に難を逃れ、味を感じなくなったあの時から5年後の今、現在は細々と1日1〜2食作ったり、買い食いしたりをしている。

かてともしければおろそかなれども、なほ味をあまくす。…

方丈記を書いた鴨長明は、晩年、俗世を離れ自作の小屋で生活をした。「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」の出だしで始まる一節が有名だが、全文を読むとその言葉一つ一つが面白い。彼の日常を取り巻く時代の、人の流れが、彼の目を通して記されている。この言葉もその一つ。時折街におりては、物を乞いていたとも文中に書かれているところから、日々の食事は十分であったのかどうであろうかと想像する。「糧が乏しければ、疎かだけれども、尚の事、味を甘くする」

他に、吾妻ひでお作の「失踪日記」「アル中日記」という漫画がある。漫画家吾妻ひでお氏の実話で、精神を病ませたり仕事に行き詰まると失踪してホームレスになってしまった日々の事などが描かれている。氏は漫画の中で「考えてみれば俺ってホームレスやってた時の方が健康的な生活してたな」と語っている。朝早く起きてその日の飯、タバコ、デザート、酒代、読み物を確保。昼間は洗濯し、拾った週刊誌や図書館で借りた本を読んで過ごす。その方が健康的になるという気持ちはよく分かる。劇中では、ゴミ捨て場に落ちていた使用済みらしき天ぷら油を一日の楽しみにほんの一口、飲んでいくシーンがある。他にもカビの生えた肉まんのカビを取り除き、うまい!と喜ぶシーンも。

うまいと感じるにはよりうまいものを食べるのではなく、米一粒の甘さを深く感じとる感覚を澄ましていくことが大切なのではないだろうか。一粒の甘さを知ると、椀一杯の白米が異常に美味く感じる。それはきっとごはんだけでなく、いろいろなことにも通じているようにおもう。

映画:パプリカ 「人間の深層心理が表出するという面においてはネットも夢も同じようなものね」

 パプリカ

「人間の深層心理が表出するという面においてはネットも夢も同じようなものね」

私はかつて、"苦"というものを自認したことがなかった。私の指す"苦"とは何かと言うと、それは、肉体における痛覚、あるいは精神の無意識下にある「苦しい」と感じる感情を意識下において認識する行為のこと。

例えば、「本当はあの人のことがとても気に入らなくて辛い」とか、「本当はこの仕事はやりたくない」といった不快感。それを感じないということは、"無知による逃避"だったんじゃないかと、今にしてみればおもう。

以前までは、成したい目的の為に、あらゆる不快な感覚に対し「無知」を貫くことで、逃避し、やり過ごそうとしていた。それは意識的な意図か、無意識による防衛かは分からない。「私は今ストレスを感じている、ああ苦しい」と自覚しないようにしていた。

ストレスをないものと思い込んでいたということは、ストレスに対する意識的な解消を行ったこともなかったことになる。

ストレスを自覚するきっかけになったのは、奥歯の痛みを感じたころだった。虫歯のせいかと思っていたら、奥歯を噛み過ぎているせいだと行きつけの歯科医から診断された。奥歯はつよく噛まれ過ぎていたために、グラグラと浮き始めていた。

これ以上歯に負担を与えないようにマウスピースを作ってもらったが、わたしは「別の事が原因なのではないか」と思っていた。その認識とは裏腹に、しだいに奥歯の噛みしめ癖は激しくなり、耐えきれない痛みをかばうように歯の間に舌をはさむようになっていた。今度は舌がかまれ過ぎると、炎症を起こし、舌炎というものになった。あるときわたしは舌が痛いことに気付き、ようやく「あ、これ噛んでるんだ」と自覚するようになった。緊張をしていると、どうやら歯を噛んでいるらしい。それは寝ているときも起きているときもだった。

そのころ、歯の噛み締め癖とはべつに、悪夢を見るようになっていた。

夢の内容は、主に何者かに襲われる夢で、連日続けてみる事で、眠ること自体が怖くなり三日で一睡眠になった時期もあった。

その頃ちょうど、犯罪被害に遭っており、まさに現実と同じような夢を何度も見ていた。襲われつつも金縛りにあい、声が出ない。

その話をある友人に話したところ、今までもらったことのないような言葉をもらったことを覚えている。

「身体がサインを出しているのかもね」

かつての私は、ストレスは害悪であり、それを自認したら「何かに」負けてしまうと感じていた。「何かに」だ。何かは分からない。

周囲の人間もきっとそう思っているであろう、私は辛いなどと感じたらいけないのだ、と思っていた。なかば強迫観念のような思いである。

その友人はわたしとちがって、現状をありのままに受け止めていることに慣れていた。わたしのように、身体を無視して根性論でどうにかしようなどというおこがましい行為をとっくに放棄していると言うか、うまい言葉は見当たらないけど。

そして私はその言葉を受け、初めて「ストレスがもたらす影響というのは、本人の自覚なしに身体に現われることもある」ということを体感したのだった。

例えば、過度の緊張からくる過換気症候群などもそうで、無理矢理起こそうと思っても起こすことができない類いの身体症状がこの世にはある。友人はそれを「身体からのサイン」と呼んだ。そう考えると、比較的軽視されがちな「肩こり」なんかもそうだし、パニックや嘔吐、フラッシュバック、幻覚、幻聴、同一性人格障害離人症摂食障害睡眠障害など、いろいろな精神障害も「身体からのサイン」と言える。コントロールできない身体からのサイン、という意味では同じ類いに属させることができるんじゃないだろうか。

そのころの私は、自分の感覚や感情に鈍感になっていることに気が付き、それを解消しようとするために苦労したことをおぼえている。

まず、今まで気づいてなかった「嫌なこと」に気づいてしまったことが、苦労の第一関門だった。「私は何故こんなことをしていたのか?」と浦島太郎のような気分になり、あたり一面薄暗い闇と海に覆われている現状に驚いた。自分があまりにも多くのストレス要因に囲まれて暮らしていたことに気が付いたのだ。

今までせき止めていた崖が決壊し、土砂が濁流となって流れ込んで来るかのように、あまりに多くのストレスが一気に意識下に流れ込んで来た。

今まで気づいていなかったストレスに気づいてしまってから、戸惑いに明け暮れる日々は短くはなかった。

ふとするとすぐに「このストレスは気のせいだ、我慢しよう」と思うし、「いや、そもそもこれは苦などではない」と自分をなだめる。かと思うと、「いや、やはりこれはおかしい」と疑問に思い始め、「なんなんだこの現状は」と怒り出す。

しかしやはりまた「いや、我慢なのだ」と始めに戻り、また悦んで自分に鞭を打ち始める。「それ、お前などもっと我慢するのだ」と。

自分が何をしたいのか分からない中、感情が表出する時の言葉にならない叫びはゲームでいうレアキャラ出現のようで、重要な気がし、その時がくるのを待ち構えた。怒り、悲しみだした時は、メモを残すようつとめ、極力鏡で顔を確認した。顔や様子を鏡で見ることは、メモとはまた違った事実を確認することができる。怒り、悲しみ、怯え、などといった感情を表すに、言葉は嘘を孕む。姿を一目することが、本音を何より雄弁に教えてくれる(気がする)。大体そういうときはつらそうな顔をしている。

その時残した記憶や記録は、「いいやこれは気のせいだ」星人にとってかわった時、「いいやこれは気のせいなんかではない」と思い起こさせてくれる手がかりになった。

私はかつて、インターネット上におけるコミュニケーションを多用していた。中学生頃から慣れ親しんでいたインターネットは、もはや呼吸の一部のような存在になっている。何ら苦もなく考えていることをタイピングし言葉に変えるし、考えることなくインターネット上に漂流させる。友人へ送り届ける。

めんどうくささとは一体なにか。

筆談というのはとてもめんどうくさい行為だとおもう。言葉で話すよりも時間がかかる。だから短い文章で、「ありがとう」などと大きく書いたり、手話や筆談でもなく、クチパクで伝えたりする。「ありがとう」の一言を伝えるには、言葉を重ねないほうがいい。1万字の言葉で「私は如何にあなたを大事に思い、感謝しているかというと・・・」と書き連ねるより、身体をふんだんに使って表現した方がより伝えたい思いに近くなる。それは笑顔だったり、仕草だったり。つい喋れたり、タイピングが楽だったりすると、言葉を膨らませようとする。言葉をいくら膨らませたところで、実態がなければ意味がないのに。

人生は泡沫のように儚い。星のように数多くある内の一つであり、一つとして同じものは存在しない。私たちは今ここにいずれ死にゆく生を生きている。わたしはその最中で知り合った人との出会い、関係、尊厳を、重要に捉えている。どこかの視点から俯瞰的にみて大事なのか小事なのかはどうでもよく、もっと個人的に、私にとってのみ、それはとても重要である。

人との関係や、自分と他人の人生を、呼吸のように吐いた、めんどうくささをとっぱらった、嘘を孕んだ言葉で損ないたくない。もっと慎重に、素直に、大事に、言葉や思いを届けたい。人生は有限だし。時間がもったいない。

けれども、ともすればまた呼吸のように言葉を吐こうとする。だからいささか慎重になってしまうし、とてもこわい。

言葉というものは、人間の深層心理を表出させるためのひとつのツールであるとおもう。

ネットも夢も、ついいろんな思いが表出してしまう。

意識下におけるものも、無意識下におけるものも。 

それがいいか悪いかは別の話で、そういうものなのだと思う。

Marilyn Manson「何も 何もだよ ただ話を聞く それが重要なんだ」

1999年4月20日、アメリカ合衆国コロラド州ジェファーソン郡コロンバインにあるジェファーソン郡立コロンバイン高等学校で、2名の男子生徒による銃乱射殺人事件が発生した。

被害死亡者13名、重軽傷者14名、犯人の2人も校内で自殺をした

本事件を題材としたドキュメンタリー映画マイケル・ムーア監督による「ボウリング・フォー・コロンバイン」の作中で、マリリン・マンソン氏がマイケル・ムーア監督のインタビューに答える。

作品内では、マイケル・ムーア監督が本事件の原因を探求していく。世論では、事件の原因を「失業率」「ゲームの悪影響」などを仮定にあげた。本作では、「アメリカ合衆国の銃犯罪率の高さ」に着目している。

この事件によって受けた銃弾が体内に残されたままである本事件の被害者と共に、その銃弾を販売したメーカーの元へ訪れ、銃弾の返品を要求したところ、交渉の末全ての店舗で銃弾の販売が無くなることが決定したという一面もあった。

また、本事件の高校の生徒、市民、全米ライフル協会の会長など、多くの事件関係者へインタビューが行われた。マリリン・マンソン氏もその中の一人である。事件後、マリリン・マンソン氏は、犯人の愛聴するアーティストであったことから、事件へ悪影響を与えた可能性があるとされ、コロラド州でのライブを禁止された。それに対し、マイケル・ムーア監督は、犯人が事件当日の朝6時にボウリングを行っていたにも関わらず、ボウリングの規制は行われなかったことに疑問を抱く。一番、事件の寸前に行っていた行為がおとがめ無し。ボウリングは事件への因果関係はないとされ、マリリン・マンソン氏は事件への因果関係があるとされたことの差異とは一体何か。マイケル・ムーア監督がマリリン・マンソン氏へ幾つかの質問を投げかける。

「犯人の彼らにもし会ったら、なんて言う?」

対し、静かに、穏やかに、十分な間を置いて答えていく。

「何も

何もだよ

ただ話を聞く

それが重要なんだ」

John Forbes Nash 「ある意味で、"正気"とは一種の"適合"なんだ」

ジョン・フォーブス・ナッシュJrとは、統合失調症を患った、ノーベル経済学賞をとった数学者だ。

統合失調症についてご存じだろうか?統合失調症とは、一般的にいうと「まぼろしが見えちゃう病気」である。悪魔がささやいているとか、誰かが私のうわさをしているとか。そして、仕事や日常生活の支障になってしまう。

私の知り合いに、統合失調症を患っている人がいる。その人に、懇々と「今通り過ぎて談笑していた人が自分のことを笑っている可能性について」語られた。私は最初「そんなことはあり得ない」と思った。なぜ、知りもしない通りすがりの人がバカにしてくるのか?そんなわけないじゃないか、と。しかし説明を受けるうちに、自分の論は「限りなく可能性が低い」であって「絶対ではない」ことに気が付いた。つまり、その通りすぎた人たちが我々のことを嘲笑している可能性は0ではない。言い換えれば嘲笑している可能性はある。となると、否定出来ない要素は不安になる。たしかに、もしかしたら嘲笑されているかもしれないのだ。

私は彼ら統合失調症患者を否定することができなくなった。私たちは、自分が狂わないために都合良く、「今通り過ぎた人が自分を嘲笑していない」ということにしている。あるいは、そうだとしても気にしないことにしている。それは現実社会への"適合"である。

そこに、彼の言葉がある。

「ある意味で、"正気"とは一種の"適合"なんだ

精神病患者は病んでいると考えられがちだけど・・・けど、そんなにシンプルなものじゃあない」

 

彼の略歴です。

名前:ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニア/John Forbes Nash, Jr.

生まれ:1928年6月13日

出身:アメリカ合衆国ウェストバージニア州ブルーフィールド

職業:数学者

父母の影響や教えもあり、幼少期から数学に興味を持ち、17歳の時、全米で10程しかない奨学生の一つであるジョージ・ウェスティングハウス奨学生としてカーネギー工科大学に進学をする。

3年後の1948年、数学の修士号を取得し卒業。プリンストン大学へ推薦で進学をする。その後、ゲーム理論の研究を行う。※ゲーム理論とは、ゲームの戦略を分析することで人間関係の対立を説明する学問である。

当時、既存のゲーム理論では基本的に1対1での戦いを想定していたが、彼の考えた理論ではプレイヤーが複数の場合における想定であった。プレイヤーが複数の場合における理論的モデルを確立させる事で、経済、ビジネス、政治といったあらゆる社会問題に応用ができると考えた。

1950年21歳の時、ゲーム理論における非協力ゲームに関する論文「Non-cooperative Games」でPh.D.(博士号)を取得。

1951年、MITの教授として就任。

1952年、交際をはじめた女性エレノアとの間に子供ジョンが生まれるが認知する事はなく、エレノアの経済的困窮により養子に出された。

1957年、教え子であった女性アリシアと結婚。

1958年、MITの終身教員の権利を取得し、同年秋にアリシアが妊娠する。冬頃から周囲の目に奇行と映る行動や、幻聴や強迫観念が増した。

1959年4〜5月、マクリーン病院の精神科に入院し「妄想型精神分裂症」と診断される。現在では「統合失調症」と診断される症状であった。本人が退院を望んだ為に周囲の前では症状を隠し、50日後に退院を果たす。数週間後、MITを辞職。

7月、妻アリシアと2人でパリに到着1週間後、1人でルクセンブルクに永住を試みるが追放される。その後ジュネーブに亡命し9ヶ月間欧州を放浪するが、アリシアの要請によってアメリカヘ強制送還される。

1960年、プリンストン大学に復帰。再びトレントン州立病院入院をする。インシュリンを投与する「インシュリン昏睡療法」を6週間に渡って行い、過去の一部の記憶を無くす。6ヶ月後に退院。

1961年夏、欧州へ亡命。

1962年12月、アリシアと離婚。

1963年、投薬を続けながらボストンの研究職に就任。その後投薬を拒否。

1970年、アリシアと再び同居し、症状の改善の兆しが見られるようになる。

1960年代初頭、企業の合併、ストライキ、団体交渉などの現実社会における争いや協力に、経済学者がゲーム理論を応用し始める。

1970年代末、ゲーム理論が経済学の基礎となり、その考えの中心となっているのが学生時代に書いた論文内における均衡解に関する理論「ナッシュ均衡」であった。

1980年代初頭、自身の幻聴と議論を始め、症状が終息に向かって行く。

1994年12月、ノーベル経済学賞受賞。

2001年春、アリシアと復縁。プリンストン大学に復職。

現在、妻アリシア息子ジョニーと暮らし、プリンストン大学で数学の研究を続けている。

 

好きなミュージシャン「5lack」

娯楽、Slackなど他名義で活動していた時期もあるが現在5lackという名前で活動しているミュージシャン。Youtubeにある中で幾つか好きな曲を挙げてみる。


 

 

最後の曲は他にも好きな鎮座DOPENESSというミュージシャンと組んだ曲なので尚好きだ。二人とも2015年のりんご音楽祭に出演予定である。行きたい。